すぷりんぐぶろぐ

暮れ残る地に 咲く花を眺めつつ 春休みは いつまでも続く

「おおきなかぶ」を妄想する

 小学校の学習発表会を観にいく。一年生は、いまだに定番らしい「おおきなかぶ」を劇化しての発表。人数は30人足らずとややさみしいが、それぞれに役を持ち声を出している。微笑ましい限りだ。多くの人が知っているストーリーは安心して観ていられるし、脚色や工夫も楽しく受けとめることができるのが良い。

 

 さて、もう何十年も前からこの話を読んだり見たりしているが、今回初めて浮かんだ大疑問(笑)がある。「なぜ、ここには『父』や『母』が登場しないのか」周知のようにおじいさん、おばあさんと来て、次が孫、そして動物たちと続いていく。「大きなかぶはぬけました」のハッピーエンドなので、最後まで出てこない。

 

 想定してみよう。一つは「父、母はいるが、今は不在」、もう一つは「父、母がいない家族」。これをさらに細分化することは出来るが、大きく捉えた。物語が続くとすれば、前者では「仕事から帰ってきた父母が喜び、皆で料理を囲む」。後者だと「美味しそうなカブ料理の夕食の様子を、写真の父母が見つめる」

 

 と、あまり不幸なイメージをせず妄想を記してみた。なんといってもトルストイ原作とされる物語を冒涜することは気がひける。「大きくなれ、甘くなれ」と声をかけて育む勤労精神、大きな者から小さき者まで力を寄せ合い物事を成し遂げる協力の大切さ…骨太の価値のある蕪の皮にひっかき傷をつける行為なのか。

 

 民話に造詣が深い方なら、きっと類型化や分析により問題を収めてくれるだろうと思いつつ、昔話や伝説を今の視点で楽しんでもいいと居直ってみたい。私が一年生担任だったら、あの劇に父、母を登場させたいなあ。孫たちと声を交わすシーンがあったらほのぼのするだろう。あっ、父母がウクライナ方面へ行って…