すぷりんぐぶろぐ

暮れ残る地に 咲く花を眺めつつ 春休みは いつまでも続く

贅沢全廃委員会◆改称(了)

(前日からの続き)

 「見えなくなった贅沢」が時々姿を現わすことがある。例えば「コロナ禍」のなかで、「不要不急の~~」が連呼され外出や集まりなど様々な制限が強くなったなかで、人々は日常が「贅沢」であったことに気づいたりした。やはり贅沢は自由であり、豊かさに通ずると改めて思い知ると、その意味の二面性がわかる。

 

 つまり「消費社会」であることだ。資本主義が常に求めている消費が促されている社会だ。次から次へと新しくなる商品を売るために煽られているのが現状だろう。しかし、そこに乗っかることを贅沢と呼ぶのだろうか。そうやって買い続けることが豊かに見えても、精神的な満足感は一時的であると誰しも感じている。

 目をつけるべきは「消費行動」。哲学者國分功一郎は「必要なものが必要な分しかない状態では、人は豊かさを感じることができない」と述べていて、その意味で「必要外の出費」が贅沢であるならば、むしろ奨励すべきと言える。従って、意識的な消費行動こそが、いわば「贅沢は、す敵だ」に通じる道と結論づける。

 

 「贅沢全廃委員会」と題してみたが、それは無理であり、またあるべき方向とは違うようだ。経済成長が止まり、資本主義が変質し格差が広がった社会では、贅沢は廃する対象というより「善配」すべきものに思われる。「贅沢善配委員会」と改称しよう。個の中で善く配置し、社会全体へ善く配分することを目指す。

 

 その「活動」をしていくための留意点はこうなるだろうか。心に刻みたい。

◆目前にある日常生活に集中して「楽しむ」「愉しむ」心がけを持つ

◆誰かに煽られない、誘導されない。虚栄に注意深く接する。

◆時に一つのモノ、一つの行為を見て、関わる事物や背景を想像してみる (了)